目次
退職を伝えたのに引き止められる。その状態のまま、もう二ヶ月が過ぎたという相談が届きました。送ってくれたのは、都内の会社で働く読者さんです。
辞意を伝えた日、上司からはこう返ってきたそうです。後任が決まるまで待ってほしい、と。断りきれず、うなずいてしまった。しかし、その後任の募集はいまだに始まりません。次の会社の入社日だけが、じりじり近づいてきます。
また、辞めると言った日から職場での立ち位置も微妙になったといいます。辞める人として扱われる日もあれば、何もなかったように仕事が振られる日もある。宙ぶらりんのまま、毎朝おなじ電車に乗る。この居心地の悪さは、経験した人にしかわからないかもしれません。
似た場所で止まっている人は、たぶん少なくないはずです。だから今回は、辞めるかどうかの話をしません。意思はもう決まっている前提で進めます。ここで扱うのは、伝えたあとの局面だけ。
読み終わるころには、次に誰へ何を言うのかがはっきりします。そのうえで、言いくるめられそうになったときの返し方も手元に残るはずです。角は立てない。それでも、こちらの意思は通す。だからこそ、その順番を大阪のオカンと一緒に組み立てていきます。
相談タイム
引き止められたまま二ヶ月が過ぎた
金曜の夜、私は駅前の喫茶店でオカンを待っていました。約束より十分早く着いてしまった。落ち着かなかったのです。
モヤ子「オカン、聞いてください。私、七月に辞めますって言ったんですよ。もう九月です」
オカン「ほな、なんでまだそこにおるん」
モヤ子「部長に、後任が決まるまで待ってくれって言われて。あんたが抜けたらチームが回らへん、って何回も」
オカン「で、あんたはなんて答えたん」
モヤ子「……すみません、って」
オカン「あんた、なんも悪いことしてへんやん。なんで謝んのよ」
モヤ子「だって、迷惑をかけるのは本当だし。私が抜けたら、みんなの仕事が増えるのは事実で」
オカン「事実やね。ほんでその事実は、誰が用意せなあかんかったもんなん」
言葉に詰まりました。つまり、人がひとり抜けたときの備えは私の仕事ではありません。それを言い切るのが怖かっただけなのです。
モヤ子「……会社、ですよね」
オカン「そや。ええか、あんたが感じてるその申し訳なさは、まっとうな感情や。優しいから出てくるもんやし、それは消さんでええ。ただな、その感情と、退職日をいつにするかっちゅう話は、別々の机に置きなさい」
モヤ子「別々の机、ですか」
オカン「同じ机に置くから、話がぐちゃぐちゃになるねん。申し訳ないなあ、せやから日付は決めません。これ、つながってへんやろ」
言われてみれば、つながっていません。つながっていないのに、私は二ヶ月そのつなげ方でしゃべってきた気がします。
オカン「もうひとつ聞くけどな。あんた、部長に何て言うたん。一言一句で」
モヤ子「えっと……お忙しいところすみません、実はそろそろ辞めたいと思っておりまして、って」
オカン「そこや」
モヤ子「そこ、ですか」
オカン「辞めたいと思っております、は相談や。願望や。相談されたら、上司は答えを返す権利があると思うわな。だから待ってくれって言われるねん」
グラスの水を一口飲んで、オカンは続けました。
オカン「あんたが渡さなあかんのは、相談やのうて通知や。冷たいことするんちゃうで。中身は一緒でも、形が違うだけで相手の受け取り方が変わるっちゅう話や」
モヤ子「通知って、なんだか偉そうじゃないですか。私、平社員なのに」
オカン「偉そうもなんも、辞めるのは権利やん。えらい人だけが持っとる特権とちゃうで」
モヤ子「権利……そう言われると、たしかに」
オカン「言い方はなんぼでも柔らかできる。頭下げてもええし、感謝も伝えたらええ。ただ、最後の一文だけは言い切るんや。何月何日をもって退職いたします、ってな」
つまり、語尾ひとつの話でした。その語尾のせいで二ヶ月が溶けたのだと思うと、少し悔しくなります。
退職の話が進まないのは、誰の都合なのか
モヤ子「でも、部長は本気で困ってると思うんです。人手が足りないのは、私が一番わかってるので」
オカン「困ってるやろな。ほんまに困ってると思うで。ほんで、その困りごとの中身、あんた分けて考えたことあるか」
モヤ子「中身、というと」
オカン「ひとつは、現場が回らへんこと。もうひとつは、部長自身の立場や。欠員が出たら、上に報告して、採用の予算取って、頭下げて回らなあかん。しんどいで、あれは」
モヤ子「……それ、私のせいじゃないですよね」
オカン「せやろ。ようやく言えたな」
思わず笑ってしまいました。ずっと喉のあたりに引っかかっていた言葉です。
オカン「引き止めっちゅうのはな、たいてい三つのうちのどれかで来る。あんたがおらんと困ると、情に来るやつ。給料上げるとか異動させるとか、条件で来るやつ。あとは、今辞めたら次で通用せんぞ、みたいに脅してくるやつ」
モヤ子「うちの部長は、一番目です。たまに三番目も混ざります」
オカン「その三番目な。あれ、言うてる本人も根拠ないねん。あんたの転職先のこと、部長は何も知らんやろ」
モヤ子「知らないです。会社名も言ってないので」
オカン「せやのに断言してくる。それがどういう言葉か、もうわかるやろ」
わかります。私を止めるための言葉です。私を見て出てきた言葉ではありません。
モヤ子「じゃあ、情に来るほうは。あれは本音だと思うんですよ」
オカン「本音やろな。せやから厄介やねん。嘘やったら振り払えるけど、ほんまの気持ちは振り払われへん」
モヤ子「そうなんです。だから断れなくて」
オカン「断らんでええねん。受け取ったらええ。ありがたいなあ、って思たらええ。そのうえで、日付は動かさへん。この二つは、同時にやれるで」
モヤ子「……気持ちは受け取って、予定は動かさない」
オカン「それが、角を立てへんっちゅうことや。相手の話をはねのけるんが強さちゃうねん。聞いたうえで変わらへんことのほうが、よっぽど強いわ」
モヤ子「聞いたうえで変わらない、ですか。私、聞いたら変わっちゃうタイプかもしれません」
オカン「ほな持ち帰り。その場で答え出さんでええねん。今日は聞かせてもらいました、で切ったらええ」
モヤ子「持ち帰りって、逃げてる感じがしませんか」
オカン「仕事の商談やったら当たり前のことやろ。なんで自分の話になった途端、逃げになんねん」
返す言葉がありませんでした。どうやら私は、自分のことになると勝手に立場を下げる癖があるようです。
引き止められても決められることは残っている
モヤ子「でも、決めるのは会社ですよね。承認されないと辞められないんじゃ」
オカン「あんた、それどこで習たん」
モヤ子「どこ、って……なんとなく、そういうものだと」
オカン「なんとなくで二ヶ月も止まっとったんか。もったいないなあ」
ばっさりでした。しかし、痛いところを突かれた感じはありません。むしろ、体の力が少し抜けました。
オカン「ええか。あんたの手に残ってるもんを数えよか。まず、いつ辞めたいかっちゅう日付。これはあんたが言うことや」
モヤ子「日付……たしかに、私まだ言ってないです。そろそろ、としか」
オカン「そこがいっちゃんあかんとこや。日付が空いてたら、話はなんぼでも先送りできるやろ。相手も悪気なしに延ばせてまう」
モヤ子「他には、何がありますか」
オカン「引き継ぎを、こっちから形にすること。あと、口だけで済まさんと紙に残すこと。この三つやな」
ノートを開いて書きました。日付、引き継ぎ、紙。三つだけです。二ヶ月ぶんの重さのわりに、拍子抜けするくらい短い。
モヤ子「オカン、私、部長を敵にしたいわけじゃないんです。お世話にもなったし」
オカン「知っとるよ。だからこそ、はっきりさせたほうがええねん。あいまいなまま引っ張るほうが、あとで恨みっこになるわ」
モヤ子「……そうか。ちゃんと言うのは、優しくないことじゃないんだ」
オカン「そや。あんたがはっきりさしたら、部長も動ける。募集も出せるし、上にも報告できる。宙ぶらりんで一番困ってんのは、実は向こうかもしれんで」
そう言われて、はじめて視界が変わりました。私は迷惑をかける側だと思い込んでいたのです。しかし、本当に迷惑を長引かせているのは何だろう。決めきれていない今の状態のほうかもしれません。
モヤ子「オカン、私、明日から何をすればいいですか」
オカン「まず日ぃ決め。カレンダー見て、最終出社日に丸つけるだけでええ。誰にも言わんでええから、今日中にやり」
モヤ子「それだけで、変わりますか」
オカン「変わるで。決めてから話す人と、決めながら話す人とでは、声の落ち着きがまるでちゃう。相手はそこを見とるねん」
会計を待つあいだに、スマホのカレンダーを開きました。指が止まったのは、来月の第三金曜日でした。
モヤ子「オカン、ひとつだけ聞いていいですか。もし部長が、ほんまに困るって泣きそうな顔したら」
オカン「そら困るやろな。困らせたらあかんとは、誰も言うてへんよ」
モヤ子「……困らせても、いいんですか」
オカン「ええに決まってるやん。人がひとり動いたら、まわりは困るもんや。それを引き受けるのが会社の仕事やねん。あんたが一生ぶんの責任負うことちゃう」
解決策
引き止められる言葉を、事実と感情に仕分ける
まず手を動かします。上司から言われた言葉を、覚えている範囲で紙に書き出してください。「後任がいない」「今は繁忙期だ」「君がいないと困る」「恩を忘れたのか」。順番も文体も、気にしなくてかまいません。
書き終わったら、左右に分けます。左が事実、右が感情。後任がいないのは事実です。繁忙期なのも事実でしょう。恩を忘れたのか、のほうは感情になります。困るという言葉は、その中間あたり。
この作業には意味があります。事実の側は、こちらから手当てができるからです。引き継ぎ資料をいつまでに作るか、業務の一覧を誰に渡すか。つまり、日付と担当者で片づく話になる。
一方で、感情の側はこちらが解決するものではありません。受け取って、そのまま置いておく。オカンの言い方を借りれば、別の机に載せるということです。
オカン「紙に書いてみ。あれ全部、頭の中にあるうちはでかいねん。外に出したら意外と小さいで」
そのため、仕分けをしておくと次に呼び出されたときに慌てません。飛んできた言葉がどちらの列のものか、その場でわかるからです。その仕分けができていれば、返す言葉も変わってきます。事実には手当てを、感情にはお礼を。
ちなみに、まだ切り出す前の段階で足が止まっている人もいるでしょう。その場合は別の記事のほうが近いはずです。退職を切り出せない…気まずくならない辞め方の伝え方にまとめてあります。
退職日の空欄を自分で埋める
引き止めが長引く原因は、たいてい一つです。辞める日が決まっていないから、話し合いは何度でも再開できてしまう。だから、こちらから日付を置きます。最終出社日と退職日、この二つ。
決めるときは、就業規則を先に開いてください。多くの会社が、申し出の時期を定めています。一か月前という記載は比較的よく見かけるところ。まずはその期日に沿うほうが、話は穏やかに進みます。
一方、法律の側にも定めがあります。民法第六百二十七条第一項(e-Gov法令検索)です。雇用の期間を定めなかった場合、各当事者はいつでも解約の申入れができる。そして、申入れの日から二週間の経過で雇用が終了する、とも書かれています。
ただし、就業規則との関係をどう見るかは事情によって分かれます。ここは断定しないほうが安全でしょう。そのため、もめている段階でなければ規則どおりの日程で出すのが現実的です。
また、伝え方も相談ではなく報告の形にします。いつごろがよろしいでしょうか、と聞けば、相手は都合のいい時期を答える。しかし、十月末日を最終出社日と考えています、と置けば、話は日程調整に移ります。
さらに、日付が決まったら有給の残日数から逆算しておきます。転職先の入社日との間隔も、このときに確認したいところ。在職中に動く段取りは在職中の転職活動のスケジュール術にまとめました。
昇給や異動での引き止めにどう答えるか
給料を上げる。部署を替える。残業を減らす。辞めると伝えたあとで、こうした条件が出てくることがあります。悪い気はしません。悪い気がしないときほど、ここで一度立ち止まりたいのです。
考えたいのは一点だけ。その条件が、なぜ今まで出てこなかったのか。要望として出していたのに動かなかったなら、それも判断の材料になります。つまり、条件そのものより、出てきたタイミングのほうが情報を持っている。
さらに、条件を受けて残った場合のことも想像しておきたいところです。周りは事情を知っています。だから、前と同じ気持ちで働けるかどうかは、正直やってみないとわかりません。
そこで、返し方を決めておきます。その場で答えないことです。ありがたい話ほど、口が勝手に「検討します」と言ってしまう。その一言が出る前に、言葉を用意しておきます。
オカン「評価してもろてありがとうございます。ただ、退職の予定は変わりません。ここまで言い切ってええねん。冷たないで、それ」
お礼と結論を、ひと続きで言う。これだけで、相手は次の交渉材料を出しにくくなります。「考えてみます」と返してしまうと、翌週また同じ席に呼ばれるでしょう。
ただし、条件を見て本当に心が揺れたなら、話は残るか去るかの判断に戻ります。そのときは先にこちらを読んでみてください。内定が出たのに辞める決心がつかない…転職の最終決断のコツで扱っています。
後任がいないと言われても、引き継ぎで退職を前に進める
後任がいない。この一言は、引き止めの理由として最後まで残ります。だからこそ、こちらから先に崩しておきたい。崩し方は単純で、引き継ぎの形を自分で作って渡すだけです。
中身は難しく考えなくて大丈夫。担当している業務の一覧、それぞれの手順、関係する社内外の相手、締切。この四つが並んでいれば、誰が引き取っても最低限は回ります。
ただし、完璧を目指すと終わりません。そこで、分量よりも渡す日を先に決めます。最終出社日の一週間前を締切にすれば、直す時間も残るはず。
また、退職届は紙で出します。口頭のやりとりは、記憶の食い違いが起きやすいからです。そのため、提出した日付が残っていれば話は振り出しに戻りにくくなります。
それでも会社が動かないときもあります。辞めさせないと言われた、届を受け取ってもらえない、というような場合です。そこで、ひとりで抱えず外の窓口を使ってください。厚生労働省の総合労働相談コーナーという窓口があります。労働局や労働基準監督署の中に置かれたところです。
引き継ぎが終わらないと言われ続けるケースもあります。そのときは、終わりの条件を先に決めてしまうのが早道。何がどこまでできたら完了とみなすのか。紙に書いて共有しておけば、判断がその日の気分から離れます。
威圧的な言い方をされてつらいなら、理不尽に怒鳴る上司への対処法も合わせてどうぞ。
まとめ
退職を伝えたのに引き止められる。ここまで、その局面だけを見てきました。しんどいのは、断れない自分を責めてしまうところです。しかし、責める必要はありません。相手の困りごとが見えてしまうのは、仕事をちゃんとしてきた人の目だからです。
やることは、そんなに多くありませんでした。言われた言葉を事実と感情に分ける。最終出社日と退職日を、こちらから置く。条件が出てきたら、お礼と結論をひと続きで返す。引き継ぎの形を作って渡す。
どれも、相手を打ち負かすための手ではありません。つまり、話をあいまいなまま置かないための手です。声を荒げる必要もありません。角が立つのは、意思がはっきりしているときではないからです。はっきりしないまま長引いたときのほうが、よほど角は立ちます。
全部を今日やらなくてかまいません。日付を決めるところまでで、今週は充分だと思います。
喫茶店を出るとき、オカンが言いました。
オカン「あんた、辞めるのは裏切りやと思てるやろ。ちゃうで。ちゃんと日ぃ決めて、渡すもん渡して出ていくのが、いちばん筋の通ったやり方や。堂々と行き」
その夜、私はカレンダーを開いて、最終出社日に丸をつけました。まだ誰にも言っていません。しかし、決めた日付があるだけで、月曜の朝の重さが少し変わった気がします。
よくある質問FAQ
退職を引き止められて話し合いが続きます。何回まで応じればいいですか
回数の決まりはありません。ただし、判断の目安はあります。前回と同じ内容がくり返されているかどうかです。新しい条件も事情も出てこないなら、その場は話し合いではありません。説得になっています。
そのときは、同じ言葉を同じ調子で返してください。気持ちはありがたいのですが、退職の予定は変わりません。言い方を変えないほうが、意思は伝わります。加えて、決めた日付を毎回そえると話は前に進みます。
さらに、面談のあとで簡単なメールを送り、内容と日付を残しておくのも有効です。記録があると、次に同じ話題が出たときに戻る場所ができます。それでも席に呼ばれ続けるなら、同席者を増やすという手も。人事の担当者が入るだけで、話の温度は下がります。
退職届を受け取ってもらえないときは、どうすればいいですか
まず、直属の上司以外にも渡し先があるかを確認してください。人事や総務が窓口になっている会社は少なくありません。社内の規程に提出先が書かれていることもあります。
どこへ出しても受け取られない場合は、記録が残る形で送る方法があります。ただし、どの手段が適切かは会社との関係や経緯によって変わります。進める前に労働局の相談窓口で事情を話しておくと安心なのは、そのためです。無料で相談できます。
そこで、これまでのやりとりの日付をメモに起こしておいてください。いつ誰に何を伝えたのか。相談するとき、この一覧があるだけで話が早く進みます。退職の理由のほうは、詳しく書かなくてかまいません。一身上の都合、で足ります。理由を細かく書くほど、そこを起点にまた話し合いが始まってしまう。
引き止められると情に流されてしまいます。気持ちの整え方はありますか
流されるのは、相手の言葉を本気で受け取っているからです。まず、その受け取る力を否定しないでください。悪い性質ではありません。
そのうえで、話す前に一行だけメモを用意しておきます。最終出社日と、その日を選んだ理由。手元に紙があると、気持ちが揺れても言葉は揺れません。また、面談の時間を先に区切っておくのも助けになります。次の予定を入れておけば、長時間の説得になりにくいからです。
面談のあとで決意がぐらつくこともあります。ぐらついたら、辞めると決めたときの理由を読み返してください。あの日の自分が、いちばん冷静だったはずです。ひとりで抱えると、どうしても輪郭がぼやけます。家族でも友人でも、事情を知っている人に一度話してみてください。声に出すことが、そのまま整理になります。自分が何に迷っているのかも、はっきりするはずです。